カンボジアのアパートより。
「残念ながら人生は短い」ってことを実感するようになった。
なぜかというと、生まれて36年間経過したという変えられない事実があるから。
今までの人生の倍を生きたら72歳。おじいちゃんだよね。
そして、もっと残酷なことに72歳まで生きられる保証は一つもないんだよね。
そのことに、ちゃんと深く向き合わないといけないんだよね。
自分の人生が終わり、すべてが無くなるという日が来るということに。
だけどこれまた難しいんだけど、「全てが無くなる」の意味がわからない。
それは自分だけじゃなく、誰にもわからない。
だって、誰もこの世にいる人は「全てが無くなる」をやったことがないから。
だから少ない頭を絞ってイメージするしかない。
だけどイメージと実際は、全く違うということを自分は知っている。
自分でやったこと以外は、全く分からないということを知っている。
それでもイメージしないよりはまだベターだろうし、準備が9割だしね。
唐突だけど、死体を見て思うことがある。
なんか死体って文字を見るだけで、拒否感・抵抗感が生まれるのは、
それこそ死と向き合っていないからなのだろう。
世間からは(世間ってなんだよ)、何をシリアスなことを書いているんだって思われるのかも。
でもそういったことは気にしないんだよね。
どうせ死ぬんだから、世間とかよりも自分の生をどうするかが大事だから。
こうやって自分の頭の中を文字に起こすと、自分がいかに自分勝手なのかがわかってしまう。
ここでも肯定しちゃうんだけど、周りはどうだか知らないけど自分は自分でしかないからね。
だってさ、どうせ死ぬんだもん。
どっちかしかない。生なのか死なのか。
その生の側(それを人生と呼ぶ)にいるんだけど、いつひっくり返るのかわからないんだもん。
いつひっくり返るのかわからないからこそ、怖れても挑戦ができる。
いつひっくり返るのかわからないからこそ、自分に正直に、そしてやりたいようにやる。
やりたいようにやれるために努力する。
今のところ、自分のやりたいことはずっと変わっていなくて、より多くの最高の笑顔を見ること。
そのために日々の努力を継続するんだ。
努力や困難の数々は、やりたいことをやるという明確な目的があるからちゃんと向き合える。
まあこんなこと言っているけど、その瞬間はめっちゃ凹むし自己嫌悪に陥ったりもする。
しょうがいないよね、所詮ただの人間なんだもん。機械じゃないし。